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日本の「終戦の日 」8月15日 [セブ島通信7月号]

日本の「終戦の日 」8月15日 [セブ島通信7月号]

セブ日本人会理事 安藤尚子

今年終戦76年目を迎える「終戦の日 」

先の大戦の「終戦の日」といえば、1945年8月15日と日本では一般常識になっていますが、日本と敵対していた国では終戦の日はいつでしょうか…

《9月2日》アメリカ・フランス・ロシア

《9月3日》中国・(ソ連時代)

アメリカとフランスでは、戦艦ミズーリ号で日本が降伏文書に調印をした、9月2日をVJデー「対日戦勝記念日」としました。

ソ連時代の「対日戦勝記念日」は9月3日でしたが、2010年にロシア政府は、9月2日を「第2次世界大戦終結の日」と定めました。

中国の「中国人民抗日戦争勝利記念日」は、中国各地で祝賀行事を行った9月3日と定めました。蒋介石率いる国民党が国共内戦に敗れ、台湾に逃れた後も、9月3日を「軍人節」として台湾の記念日としています。

では、ソ連と中国(国民党政府)はアメリカの9月2日とは異なる9月3日としたのでしょう…

ソ連では、ソ連時代とロシアになってからとでは、終戦記念日が違っています。ソ連時代は降伏文書調印の翌日9月3日を「対日戦勝記念日」としていました。ソ連は1945年8月9日に対日戦を開始します。降伏文書調印式が行われている9月2日は、一方では北方領土の歯舞島攻略作戦を開始していました。そして、9月5日に千島列島全島を占領します。

その間、日本とソ連との戦闘は継続していました。そのため、ソ連は降伏文書調印式の翌日の9月3日に戦勝記念式典を開き、体裁を整えました。その後ソ連が崩壊し、政権を受け継いだロシア連邦共和国議会は、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定する法案を可決しました。日本は北方領土問題を抱えたソ連とは、1956年に日ソ共同宣言を交わし批准した条約扱いになってはいますが、実は平和条約は締結されないまま今日に至っています。

中国大陸での日本軍の主な戦闘相手は、蒋介石率いる国民党軍でした。中国戦線の全大日本帝国陸軍部隊を統括した支那派遣軍は、1945年9月9日に南京で正式な降伏調印をして国民党軍に降伏しました。

しかし、国民党政府はミズーリ号上の降伏調印日である9月2日を戦闘の区切りとし、9月3日が記念日となりました。

国共内戦後、1949年10月1日に成立した中国(中華人民共和国)は、正式な終戦記念日は存在していませんでした。当時、中国大陸では戦線が複雑になっていました。蒋介石率いる国民党軍と、毛沢東率いる中国共産党軍は互いに中国の覇権をめぐって内戦中でした。

大日本帝国陸軍支那派遣軍の武装解除は国民党軍が行いました。中国大陸北部の華北地方では関東軍(満州国駐屯の大日本帝国陸軍)が駐留していました。ソ連軍は関東軍の投降日本軍兵士たちを中国共産党軍に引き渡した為、関東軍に対しての武装解除は中国共産党軍が行いました。

その為、関東軍は戦闘相手ではなかった中国共産党軍による武装解除を拒否しました。関東軍が武装解除命令に抵抗した事で、8月15日から11月末までの間に、約2,900名の日本軍兵士が命を落としました。中国大陸で戦った日本軍は、それぞれ2つの勢力から武装解除を受け、1945年9月9日に国民党政府に降伏した支那派遣軍の終戦の日は明確ですが、関東軍においては終戦の日が明確ではないという複雑な背景があります。

また、中国共産党が建国した中華人民共和国が成立したのは1949年10月1日であり、当時は降伏文書が交わせない状態でした。日本は中国と1972年に国交を回復し、日中共同宣言を通じて正式に戦争状態を終わらせました。 中国は2015年から新たに9月3日を「抗日戦争記念日」の祝日としました。

日本が8月15日を「終戦の日」とするのは何故でしょう…

《8月10日》ポツダム宣言の受諾

《8月14日》天皇陛下が終戦の詔書に署名

《8月15日》天皇陛下の玉音放送

《9月2日》戦艦ミズーリ号上で日本の降伏文書調印式  

終戦を8月15日とする法的根拠は、終戦の年よりもずっと後の1963年5月14日の閣議決定です。

当然のことながら、8月15日が「終戦の日」になった背景には、終戦を伝えた天皇陛下の「玉音放送」の存在が強くあるそうです。

 「玉音」とは、陛下の御声の事をいいます。

玉音放送といえば

“然れども朕(天皇)は時運の赴くところ
耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、以て万世の為に、太平を開かんと欲す”

この部分ばかりが、テレビで繰り返し放送されます。しかし、実際、玉音放送「終戦の詔勅」を全文見ますと、そもそもこの戦争が何のための戦争だったのか、未来の建設に向けて国民がこれから何をしていかなければならないのか、を天皇陛下が明確に述べられています。


【終戦の詔勅】※

朕は、深く世界の大勢と、帝国の現状をかえりみて、非常措置をもって事態を収拾しようと考え、ここに忠実にして善良なる汝ら臣民に告げます。 

朕は、帝国政府に、米英中ソの四国に対し、そのポツダム宣言を受諾する旨、通告させました。

そもそも、帝国臣民の安寧をはかり、万国が共存共栄して楽しみをともにすることは、天照大御神からはじまる歴代天皇・皇室が遺訓として代々伝えてきたもので、朕もそれをつねづね心がけてきました。

先に米英の二国に宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって、海外に出て他国の主権を奪い、領土を侵略するがごときは、もとより朕の志すところではありません。

しかるに交戦状態はすでに4年を過ぎ、朕の陸海軍の将兵の勇敢なる戦い、朕のすべての官僚役人の精勤と励行、朕の一億国民大衆の自己を犠牲にした活動、それぞれが最善をつくしたのにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとって有利とはいえません。

そればかりか、敵は新たに残虐なる新型爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれません。この上、なお交戦を続けるのでしょうか。ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいありません。

そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいのでしょう。皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいのでしょうか。

以上が、朕が帝国政府に命じ、ポツダム宣言を受諾させるに至った理由です。 

朕は、帝国とともに終始一貫して東アジアの解放に協力してくれた諸々の同盟国に対し、遺憾の意を表明せざるをえません。

帝国の臣民の中で、戦陣で戦死した者、職場で殉職した者、悲惨な死に倒れた者、およびその遺族に思いを致すとき、朕の五臓六腑は、それがために引き裂かれんばかりです。

かつ、戦傷を負い、戦争の災禍をこうむり、家も土地も職場も失った者たちの健康と生活の保証にいたっては、朕の心より深く憂うるところです。

思うに、今後、帝国の受けるべき苦難は、もとより尋常なものではありません。汝ら臣民の真情も、朕はよく知っています。

しかし、ここは時勢のおもむくところに従い、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、それをもって万国の未来、子々孫々のために、泰平の世への一歩を踏み出したいと思います。 

朕はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにあります。

もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、

互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところです。 

そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけなさい。

汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体しなさい。

御名御璽     昭和20年8月14日

〈※ ねずさんの学ぼう日本 HPより引用〉