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紫原中学校でのキャリア教育講演会で [セブ島通信3月号]

紫原中学校でのキャリア教育講演会で [セブ島通信3月号]

セブ日本人会副会長

櫻井絹恵

セブでのコロナ禍においての防疫対策の故に、非常に困難でハードルの高い出国手続きに加え、日本に入国できるまで三度もPCR検査を受けることになった。運良く搭乗した飛行機に陽性者がおらず更なる規制措置がなかったのは幸いだった。

福岡空港ではコロナ対策の緊張感があったが、一旦空港から外に出るとフィリピンとは比較にならないほどの緩さに驚いてしまった。慣れは怖いので努めて慣れないようにしているが、鹿児島の家はムーミン谷の様なところにあるのでセブでの濃密なコロナの日々が遥か遠くの出来事の様に感じてしまう。

鹿児島に帰省して自己隔離が終わったところで、鹿児島市内にある紫原中学校の花月校長から講演会のオファーが来た。講演相手は1年生から3年生までの全校生徒670人と50名の職員。

対面での講演は防疫上タブーなので、ZOOMを使ってのレクチャーを行うことになった。講演後は各学年代表者数名と対面で質疑応答を受けた。これまでセブで行政やロータリークラブ、大学生や一般市民にプレゼンやレクチャーを行ってきたが、日本の中学生は初めての経験。

中学一年生と三年生とでは物事に対する理解能力や心身の成長が大きく異なるため、どうやってアプローチすればいいか正直悩んだ。14ヶ月前に鹿児島高校で対面授業を行う機会を頂いた事があったが、その時は南日本新聞で大きく取り上げてもらった。

セブ島は語学留学やバラエティー番組などで見たり聞いたことはあってもフィリピンにある事を知らない中学生が多い。私のレクチャー前に紫原中の在任教諭がフィリピンについて簡単なブリーフィングをして下さったのがありがたかった。

ZOOMでの講演会は私の方から見ると生徒達の表情が掴みづらかったが、子供達はTVを通して直に私を見ている。耳の不自由な学生も数人いると聞いていたのでフェースシールドのみを使用して口の動きが見えるようにした。

講演会ではセブ日本人会活動や、フィリピンで過ごした37年間の体験、また海外生活での心構えを話した。私は過去40年の海外生活で様々な国に居住したり訪れたりしたが、どの国に行っても日本と比較する事はやめ、出来るだけその土地の言葉で自ずから溶け込むように心掛けてきた。

37年過ごしたセブではセブ日本人会、日本語補修授業校、KADVO神奈川海外ボランティア歯科医療派遣団、北九州市や横浜市の環境事業、セブ文化振興財団、セブ市競技ダンスチームを通して積極的に多くの活動に関わってきた。日本文化を発信するイベントを開いたり、歯科医療活動や里親教育支援、固形廃棄物管理活動、文化事業や奨学制度支援に従事してきた。

心の中では常に、現地の住民に大きな犠牲を強いた過去の戦争とも向き合うことで、皆と同じ目線に立ち接することが重要だと活動を通し訴えてきた。

私が24歳の時にセブ島に渡った当時はマルコス政権下で戒厳令が発令されていて、発言の自由や行動も極力制限されていた。現在のミャンマー状況に酷似している。その後マルコス政権から新政権への移行期で内乱やクーデターが頻発、自宅から2軒先の家で銃撃戦が繰り広げられたこともあったり、富裕層や外国人を狙った誘拐ビジネスが始まり誘拐予告まで受け取った事もあった。

数年間無法状態の暗黒の時代が続いたが、当時はインターネットや携帯電話などの通信インフラはなく情報収集が非常に困難な時期だった。クーデターなどが起こる度にビサヤ語やタガログ語が分からないと状況が把握出来ず益々不安になった。そんな時だからこそ、セブ日本人会やセブ日本語補修授業校での繋がりは必要不可欠であったし、お互いを支え合い励まし合う大切な場となった。

昨年からコロナ防疫事情で大きなイベントは出来ないが、セブ日本人会では5回行って来た盆踊り大会に加えて、伝統的な日本文化やアニメやコスプレの新しい文化も紹介する桜フェスティバルも企画開催した。全ての活動の根底には戦後日本人を受け入れてくれたフィリピン人への感謝がある。

太平洋戦争では比国で53万人の日本人が命を落としたが、日米の戦闘に巻き込まれたフィリピン住民ら110万人が犠牲になった。強い反日感情は移住後も残っていた。主人の祖父母は福建省から移民した華僑で祖父は戦時中華僑商工会議所の会頭をしていて、祖母は中国での社会的地位を象徴する纏足(てんそく)だった。

南京事件が起こった際にフィリピンで半日運動を真っ先に始めたのも祖父で、憲兵隊に祖父だけでなく家族までもが命を狙われ逃げ回った過去がある。私がセブに居住始めた時は祖父は既に他界していたが、日本人を忌み嫌っているはずの祖母が誰よりも私を可愛がってくれた。憎しみを愛情に変えてくれた祖母に心より感謝した。

セブ日本人会で会長をしていた4年間、戦没者慰霊祭では日本の加害的な側面から目を背けてはいけないという思いで日本兵だけでなくフィリピン人犠牲者についても必ず触れたのもそういった背景がある。

国籍や言葉が異なる人達が共に共存するには何が必要か、子供達と共に改めて考える機会をもらった。日本人は多様性を求める気持ちがまだ足りない。国籍に関わらず、外国人を一人の人間として尊重し向き合う姿勢が欠かせない。子供達は純粋な気持ちで海外生活や海外就労に憧れる一方、日本人としての自覚や祖国に対する想いが足りない。

日本から一歩外に出ることは、日本人としてのアイデンティティを自覚し誇りを持つことが求められる。日本についても良く知っておく事が重要だ。

海外では全てが自己責任で行動しなければならない。水道をひねれば勢いよく水が出たり、電気が24時間使えたり、ウォシュレット付きの水洗トイレで用を足したり、病院に行けば保険制度があり安くで医療が受けられ、義務教育では無償で教科書が貰え、教育費も少ない負担で誰もが平等に教育を受けられる。

ごみ収集にしてもスケジュール通りに回収されている。しかしながら、日本では日常生活で当たり前のことが海外に一旦出るとこれら全てが当たり前でなくなるのだ。海外で歩きスマホなんてとんでもない話で治安も日本のように保たれ秩序がある国は一握りしかない。

誠の海外事情を知ることで、国への感謝の念を常に忘れないことだ。子供達には公民で学習している多文化共生ができる社会に少しでも近づけるよう頑張ってほしい。グローバル化が進む今だからこそ、お互いを理解し合うためにはコミュニケーションが大切で誠実に向き合えば必ず伝わる。

引きこもりや不登校が普通に増加していることも聞いた。感受性の高い時期に、人生経験が少ないが故に心が折れやすい繊細な子供が増えていて、教育講演会では心の病と葛藤している生徒にもエールを送りたかった。人生は七転び八起きで、困難に直面したときは絶対に諦めないこと、また辛かった経験は肥やしとなり長い人生で必ず役立つ時が来る。

今はまだわからないかもしれないが、人は必ず他人には無い才能がありそれが長い人生の何処かで開花する時期が来るという事を知ってもらいたかった。「これでもか、これでもか!」と障害物競争の様に困難が降り掛かり何度倒されても、その辛さを乗り越える原動力は「ターミネーターのようになる!」事だと伝えた。また心に強さと優しさを持ち、諦めないで何事にも挑戦し続ける事が大切だと教えた。

私自身がフィリピン人から学んだ事は、どんなに悲しい時でも微笑みを忘れないことだ。子供達にも今日から出来ることとして自分からスマイルする事で周りが和むことを伝えた。最初から相手を理解出来たり、言葉を話せる人は誰もいない。でも微笑みによって心の壁を作らなくて済む。

人は変えられないが、ちょっとした努力で自分を変える事で周りも大きく変わる。毎日が挑戦、毎日精進するつもりで日本の将来を担う若者に頑張ってもらいたい。