セブ観音と神風特攻隊

8月15日を迎えるにあたり

故国日本から離れ、異国のフィリピン・セブ島で暮らす私たちにとって、セブ観音は戦火に包まれたあの日のセブと、現在をつなぎ合わせるメモリアルとしての役割を果たしてきました。

かつて、この地で、民間人を含む多くの同胞の命が失われ、まだ20歳そこそこの若い兵たちが散華しました。

マルコポーロホテルの厚意によって建立を許されたセブ観音がある場所は、戦時中セブが米軍の空襲にあった際、迎撃に飛び立ったゼロ戦の一機が撃墜され、墜落した地点です。

ここからほど近い中腹に、「日の丸陣地」と呼ばれる日本海軍の拠点が置かれていました。上陸した米軍は日の丸陣地に襲いかかり、激しい戦闘の末、多くの日本兵が命を落としています。

かつては、このあたりに六基の卒塔婆が立っていました。それらを一カ所にまとめ、永久碑として建立されたのがセブ観音です。かつてセブで戦ったセブ海軍部隊や陸軍挺身第3、第4連隊所属の元日本軍人有志によって建立されました。

セブ観音が見据える先は、かつてセブ基地があった場所です。現在は経済特許区ITパークとして繁栄している場所には戦時中、日本海軍の航空基地があり、神風特攻隊がここから出撃しました。

「神風特攻隊」といえば映画化もされた百田尚樹著「永遠の0」を観た方、読んだ方も多いことでしょう。

神風特攻隊が実戦に投入されたのは、フィリピンの戦いが初めてです。説明するまでもありませんが、神風特攻隊はゼロ戦などの戦闘機に爆弾を装填し、機体ごと敵空母などの艦船に激突する任務を負った部隊です。

「九死に一生」という言葉がありますが、神風特攻隊は一度飛び立ったら最期、生きて生還する望みはまったくありません。まさに「十死零生」が必至の特殊部隊でした。

特攻機による戦死者第1号として敷島隊の関行男大尉が有名ですが、実は関大尉より4日早くセブ基地から特攻機として出撃したまま未帰還となった機がありました。大和隊の久能中尉です。関大尉が「特攻第1号」と呼ばれることにちなみ、久能中尉は「ゼロ号の男」と呼ばれています。

特攻に出撃する前夜、ピアノに堪能だった久能中尉は、士官用の食堂に置かれたピアノを奏でました。セブ基地に響き渡るベートーヴェンのピアノソナタ「月光」は、いつになく澄み切った音色であったと記録されています。

明日、特攻にて死する身と覚悟しながら、久能中尉はどのような思いで今生最期となるピアノを奏でたのでしょうか。

ピアノの音色を聴きながら、多くの兵や整備士官はあふれる涙を堪えることができずに、泣きじゃくっていたそうです。

セブ基地から初めて特攻機が飛び立って以来、神風特攻隊は幾度も繰り返され、多くの若者を死地に追いやりました。今日から冷静に振り返るならば、神風特攻隊が非人道的であり、非難されるべき作戦であったことは否定できません。

しかし、20歳前後の若者の多くが特攻隊に志願し、米軍有利の戦勢をなんとか挽回しようと自らの命を捧げたことは、紛れもない事実です。

彼らが願ったことは、米軍の侵略から日本本土を守ることであり、彼らの家族や友人など大切な人を守ることでした。

特攻機に乗り込んだ、まだ二十歳そこそこの若者たちは、上空から一気に下降し、米空母の甲板を目がけて突撃しました。急下降のために、操縦桿を一気に押し倒すときの彼らの心境はいかばかりであったことか……。

平和な時代を生きる私たちには、その当時の彼らの思いを正確に感じとることなど、とてもできそうにありません。それでも、国を守るため、ひいては故郷に暮らす父母や兄弟姉妹、妻や子供を守るためとはいえ、死に際した彼らの思いが、そのような英雄譚(たん)だけで語り尽くせるほど単純なものでなかったことだけは想像に難くありません。

家族に向けた哀切の情、生への執着、使命感と共に内在する自分が犠牲になることへの理不尽な思い、そうした諸々の思いが交錯するなか、それでも操縦桿を一気に押し倒し、彼らは自らの一命をかけて敵艦を屠(ほふ)ることに身を捧げました。

自己の命を犠牲にしてまでも他を生かすという発想は、日本の古(いにしえ)の時代より培(つちか)われてきた崇高な理念です。しかし、彼らをそうせざるを得ないほどに追い詰めたものは明治以降、無理に無理を重ねて富国強兵につとめた日本の歴史そのものであったともいえるでしょう。

後生に生きる私たちにできることは、彼らを顕彰し、感謝の思いを捧げながら慰霊することです。そして、神風特攻隊の物語を語り継ぎながら、二度と同じ過ちを繰り返さないように平和への誓いを新たにすることです。

セブ観音は今も、神風特攻隊が舞い上がった空を、じっと見つめています。神風特攻隊の悲劇を風化させてはならない、語り継がねばならないと、セブ日本人会は切に願っています。

レイテの戦いとセブ観音

セブ観音はセブ島に位置しますが、セブ島だけの慰霊にこだわることなく、ビサヤ諸島全体の慰霊を兼ねています。フィリピンの戦いにおいて最も死闘が繰り広げられたレイテ島も、ビサヤ諸島のひとつです。

今から75年前、レイテ島はまさに地獄でした。日本兵にとっても米兵にとっても、そしてレイテに暮らすフィリピン人にとっても、当時のレイテは地獄の島以外のなにものでもありませんでした。

レイテの戦いに投入された日本兵は、およそ8万4000人です。そのうち生きて日本に戻れた将兵は、わずか2400人ほどに過ぎません。実に8万人以上、率にすれば97%の日本兵が、レイテ島にて土に還ったのです。

特攻が行われたのは、なにも空だけではありません。海では人間が魚雷に乗り込んで敵艦に体当たりする回天特別攻撃隊が組まれ、陸では弾薬が尽きた日本兵が銃剣を手に米軍の陣地に突撃するという斬り込み隊による特攻が繰り返されました。レイテにおいても、あまたの日本兵が斬り込み隊として戦死を遂げています。

1944年後半以降、日本軍の作戦のことごとくは陸海空からの特攻がなければ成り立たない惨憺(さんたん)たる状況を呈していました。そこには数え切れないほどの悲劇の物語が織り込まれています。

世界の軍事史にも例をみない特攻が繰り返されたのは、刀折れ矢尽きた挙げ句に「最後に残された頼みの綱が精神力よりない」、といった刹那的な状況に追い込まれたからこそです。

平和な現在から振り返り、そのような状況を揶揄(やゆ)することは、正しいこととは思えません。たしかに当時と今では、価値観が大いに異なります。

しかし、レイテで死んでいった日本兵たちと今の私たちといったい何が違うのかと思いを馳せるならば、決定的な違いは「時代」以外に求めることはできないように思えます。

もし、あの時代に私たちが生まれていたならば、日本兵の一人として南方の島のどこかに送られたはずです。たとえ私たちがどれだけ平和を求めたところで、兵士一人ひとりの思惑などなんの力もなく、国家の意思のままに時代に翻弄されるよりなかったことでしょう。

その先に待っていたのは、突撃による死であったのか、あるいは密林の中をさまよった果ての餓死であったのか、病死であったのか、それとも自決であったのか……。

もう少し生まれる時代が早ければ、レイテ島で死んでいったのは私たち自身であったのかもしれません。

そのとき、私たちは何を思って息絶えたのでしょうか。

おそらくは死ぬために戦う兵士など、一人もいなかったことでしょう。誰もが家族のもとへ帰還することを願い、生きるために必死に戦ったに違いありません。

しかし、戦死・餓死・病死・自決など死に様はさまざまであったとしても、結果的に日本軍の多くは全滅して果てたのです。

地獄のレイテから奇跡的に生還した日本兵の多くはセブ島に転進するも、上陸した米軍とフィリピン人ゲリラ部隊に追われ、密林のなかに多くの屍をさらしました。

レイテにおいてもセブにおいても、未だに数多くの遺骨が収容されないまま、密林に眠っています。

毎年、8月15日にセブ観音を前に響く読経の声が、彼らの魂を少しでも慰めてくれることを願うばかりです。

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