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なぜフィリピンは貧しいのか?今でも貧富の差が解消できない本当の理由

なぜフィリピンは貧しいのか?今でも貧富の差が解消できない本当の理由

記事引用元:俺のセブ島留学Pro|フィリピン留学完全ガイド

フィリピンはなぜ貧しいのか、徹底分析!

「フィリピンでは貧富の差が激しいらしい」、そんな話はよく耳にするのではないでしょうか?
しかし、貧富の差がどれほど大きいのかは、実際に現地に足を運んでみなければ、なかなかわからないものです。少なくともフィリピン人の富裕層は、日本人がイメージする大金持ちよりも、度を超えてはるかに裕福です。そして、フィリピンの貧困層は、日本人がイメージする貧乏人よりも、はるかに貧しい生活を送っています。

富裕層がどれだけ贅沢で夢のような生活を送っているのかについては、個人差もありさまざまです。一方、貧困者のなかでも最下層に位置する人々の暮らしぶりは共通しています。彼らは人が住んでいるとは到底思えないようなバラック小屋で生活しています。屋根があればまだましなほうです。ストレートチルドレンと呼ばれる子供たちは、文字通り路上で寝起きしています。

野外での生活は、冬の寒さが厳しい日本ではできないことですが、フィリピンのように年間を通して温暖な国であれば、どうにか雨風をしのぐことができます。食べられるものを口にできるかどうかわからない毎日を、彼らは過ごしています。彼らにとって毎日の大きな目標は、食べられるものを手に入れることです。そこには贅沢が入り込む隙間はまったくありません。貧困層の家に生まれた子供たちには、オシャレも勉強もゲームも漫画も無縁です。

フィリピンでは高校までが義務教育のため、授業料は国が負担してくれます。しかし、学校へ通うためには制服や文房具をそろえ、食費や交通費を用意しなければいけません。その日に食べられるものを口にできるかどうかわからない、という暮らしをしている貧困者の家庭に、子供を学校に通わせる余裕などありません。

貧困層の子供たちは学校へ行く代わりに、幼い頃から働きに出ます。ゴミのなかから換金できる物を探したり、子守のバイトをしたりしながら少しでも日銭を稼ぎ、家族の食費を支えます。

http://www.straitstimes.com/asia/se-asia/philippines-is-still-poor-philippine-daily-inquirer

貧富の格差は、フィリピン社会に横たわる闇です。

フィリピンの情報サイトである entrepreneur に、「典型的フィリピン人の純資産はいくら?」と題された記事が掲載されていました。この記事では、フィリピンにおける貧富の差がデータを通して浮き彫りにされています。

そこで今回は、この記事を翻訳して紹介するとともに、なぜフィリピンでは貧富の差が激しいのかについて、主にフィリピンの歴史を中心に紹介しましょう。まずは、entrepreneurの記事を翻訳して、紹介します。わかりやすくするために、多少の加筆をしています。

なお、日本円に換算した際に用いた為替レートは、2017年1月29日時点のものです。

典型的フィリピン人の純資産はいくら?

クレディ・スイスのグローバル・ウエルス・データブックによると、2016年のフィリピン人平均純資産は$9,878(1,137,000円)であり、2000年当時の$2,768(318,000円)からは3.6倍となりました。

成長率だけを見ると素晴らしいかもしれませんが、これが20年かけて起こったということを、はじめに考えておかなければいけません。毎年の成長率に換算すれば、たったの10%にすぎません。しかも、10年も経てば物価も上がっていますが、この数値には物価の上昇は反映されていません。

実際のところ、アジア太平洋地区諸国や世界各国と比べてみると、フィリピン人の貧しさは依然として抜きんでています。昨年時点でのフィリピン成人1人あたりの平均資産は$9,878(1,137,000円)ですが、アジア太平洋諸国の平均($46,325 = 5,333,000円)の21.3%にすぎず、世界平均の($52,819 = 6,080,000円)と比べると、たったの18.7%です。

16年前、フィリピン人の平均資産が$2,768(318,000円)だった頃は、アジア太平洋諸国平均や国際平均の10分の1以下であったことを考えれば、たしかに良くはなっています。しかしながら、手放しで喜ぶわけにはいきません。格差が縮まったのは、アジア太平洋や世界各国で経済が停滞していることから起こる成長率の鈍化によるものだからです。アジア太平洋地区の平均資産の増加率は37%、国際平均は67%です。

一方、フィリピン人の平均資産は同時期で257%も増加しています。インドネシアなどで導入された、公平な経済成長を促す方針を適用していれば、フィリピンもさらに成長できた可能性があります。実際、インドネシアは2000年から2016年までに331%の成長率を記録しているのです。

さらに、フィリピンにとって問題なのは、平均資産が増加するとともに、不平等さもまた増加していることが見て取れることです。つまり、貧富の差がより広がっている、ということです。これは、フィリピンにとって望ましくない傾向です。所有する資産がいかに不平等であるかを計るには、平均資産値と中間資産値の差を見ることが一般的です。

フィリピンの昨年の平均資産値は$9,878(1,137,000円)でした。では、中間値はどうかといえば、たったの$2,055(236,000円)にすぎません。そこには、79.2%もの開きがあります。実はこの格差は、2008年から年々増加しています。もっとも格差が縮まっても、72.6%に止まっています。平均資産値と中間資産値の差は、たった一人、あるいはほんの数人が大きな数字を弾き出すことで、簡単に歪められます。

たとえば、3人の無職の人間がいたとします。毎月収入がないため、もちろん彼らの平均資産値はゼロです。しかし、たったひとり20万ペソ(462,000円)を稼ぐ人が入るだけで、そのグループ4名の平均値は5万ペソ(115,000円)に跳ね上がるのです。では、このとき、グループの中間資産値はどうなるでしょうか?

実はグループの中間資産値は、ひとりだけ高収入の人間が入ったところで、ゼロのままです。このあたりは統計学のややこしいところですが、統計学上の中間値は、値の範囲の中間にあるポイントを基にしています。そのため、極端に高い数値、もしくは極端に低い数値の影響を受けません。

こうした仕組みがあるからこそ、平均資産値と中間資産値の差を求めることで、貧富の差がどれだけ大きいのかを、見分けることができるのです。クレディ・スイスは、世帯の家計とその他の富の分配データから情報を収集して、報告書をまとめています。報告書には200か国以上のデータが含まれており、すべての収入レベルに及んでいます。

フィリピンに見る豊かさと貧しさ

上記の記事からは、フィリピンにおける貧富の差を読み取ることができます。では、実際に各世帯ごとの収入を具体的に比較してみましょう。民間調査機関のソーシャル・ウエザー・ステーション(SWS)が行ったデータを参照してみます。

フィリピンのマーケティングでは、所得層の5段階をA~Eの5段階に分けることが、よく行われています。

SWSの統計によると、富裕層と言われるA・Bクラスは、フィリピンの全世帯のなかのわずか1%に過ぎません。A・Bクラスの1年間の世帯収入が185万7千ペソですから、日本円に換算するとおよそ420万円です。

中間層に位置するのがCクラスで、全世帯の9%を占めています。世帯収入60万3千ペソは、およそ188万円です。一方、貧困層に属するのがDEクラスです。貧困層はふたつのクラスに分かれています。

Dクラスは、貧しいながらもなんとか生活ができる世帯です。実に全世帯の60%を占めており、フィリピンのほとんどの世帯は、ここに属していることがわかります。世帯収入19万1千ペソは、およそ44万円です。

Eクラスは、いわゆる最貧困層です。世帯収入6万2千ペソは、およそ14万円です。月収にすれば1万円ちょっとです。さすがにこの収入では、食べていけるかどうかぎりぎりです。

フィリピンの物価が日本と比べて安いことはたしかですが、すべてが安いわけではありません。たとえば電気料は、フィリピンのほうが日本よりも高くなっています。物価が安ければ収入が低くても暮らしていけますが、それにも限度があります。日本人がフィリピンで、一人1万円ちょっとで衣食住のすべてをまかなえと言われたなら、おそらく無理でしょう。

まして、Eクラスの月収1万ちょっとは、一人で使える金額ではありません。家族全員がその金額で食べていくことになります。フィリピンでの世帯の平均人数は5人ですが、貧困層の世帯になるほど人数が増える傾向にあります。貧困層の家庭では8人や10人を超えることも、珍しくありません。こうしてデータを並べてみると、フィリピンにおける貧富の差がはっきりと見えてきます。

富裕層と中間層をあわせても、全世帯の10%ほどです。残りの90%の世帯は、貧困層なのです。

そこには凄まじい貧富の差が、横たわっています。では、ここで、entrepreneurに「100万ドル以上持っているフィリピン人は何人? スイスの銀行が試算」という記事が掲載されていましたので、こちらも翻訳して紹介しましょう。

フィリピンの富裕層の実態が、つかめることでしょう。

100万ドル以上持っているフィリピン人は何人? スイスの銀行が試算

フィリピン人の成人人口は約6,000万のため、ミリオネアは0.06%しかいないことになります。フィリピン人ミリオネアの割合は、近隣諸国や世界平均と比べても、とても少ない結果になっています。つまり国内の貧富の格差が、他の国より大きいことがわかります。

アジア太平洋地域では、12億人のうち0.52%が、そして世界では48億人のうち0.68%がミリオネアです。しかし、フィリピンはタイ(0.06%)やインドネシア(0.07%)など、ASEAN諸国と比べると同レベルの割合です。

フィリピンは急速な経済成長のおかげで、この6年間でミリオネア人口の割合が急激に増えました。2011年は18,000人、つまり総成人人口の0.03%しかいなかったミリオネアが、昨年は倍以上の38,838人に増えているのです。

しかし、ミリオネアの間にもさらに格差はあります。この約39,000人の百万長者のうち、1,000万ドル(11億5千万円)以上所有しているのは2,668人に過ぎず、1億ドル(115億円)以上となると193人しかいません。ビリオネア(10億ドル = 1,150億円以上)となるとその数は14に激減します。

大多数のフィリピン人、つまり残りの87%は、金銭的・非金銭的な資産を含めても1万ドル以下の資産しか所有していないことになります。フィリピン人成人ひとりあたりの平均資産は $9,878(1,137,000円)ですが、これが中間値(中心的傾向を表すもう一つの指針)となるとさらに下がり、 $2,055(236,000円)になります。

この2つの数値に大きな開きがあるということは、不平等が蔓延していることのひとつのしるしとも言えます。クレディ・スイスは、世帯の家計とその他の富の分配データから情報を収集して報告書をまとめています。報告書には、200か国以上のデータが含まれており、全ての収入レベルに及んでいます。

なぜ、フィリピンでは貧富の差が大きいのか?

経済成長率だけを見れば、フィリピンはアジアでも抜群の成長率を誇っています。

2000年代以降著しい経済発展を遂げているブラジル・ロシア・インド・中国の4ヶ国をBRICsと呼びますが、それらに次いで21世紀有数の経済大国に成長する高い潜在性があるとされる国をNEXT11と呼びます。フィリピンはNEXT11のひとつに数えられています。しかし、経済が成長しているにもかかわらず、フィリピンの場合、一般庶民の生活ぶりはちっとも向上していません。

経済成長によって潤っているのは、わずか1%に過ぎない富裕層ばかりです。富める者はさらに富み、貧しい者はさらに貧しくなるのがフィリピンの現状です。そこには貧困が連鎖する悪循環が生じています。

貧富の差による不公平感は、entrepreneurの記事にもあったように、ここ数年でさらに加速しています。なぜ、フィリピンではこのような貧富の差が生じているのでしょうか? 周辺諸国が経済的にフィリピンよりも発展し、貧富の差も縮まっているのに比べて、なぜフィリピンではちっとも貧富の差が解消されないのでしょうか?その原因は、フィリピンの歴史をたどることで見えてきます。

かつてフィリピンは潤っていた

http://www.ourknowledge.asia/blog-posts--articles/which-philippine-president-caused-the-downfall-of-the-philippines-economy

フィリピン経済はかつては「アジアの落ちこぼれ」ともいわれ、周辺諸国が経済的に発展していくなか、フィリピンだけが取り残されたように経済が停滞していました。経済成長はしているものの、現在も平均資産で比較すると、アジアの平均資産の21.3%に留まっており、依然として貧しさは際立っています。

しかし、フィリピンの経済は昔からずっと遅れをとっていたわけではありません。1960年代のフィリピンの1人当たり国民所得は、アジアで第何位だったと思いますか?

今日のフィリピン経済からは信じられないかもしれませんが、アジアで第2位でした。日本に次ぐほどの強い経済力を、フィリピンはもっていたのです。マニラは東京に負けないほどの活気にあふれていました。

ところが、10年経つ頃には台湾と韓国に追い抜かれ、さらに10年経つとタイやマレーシアに抜かれ、1990年後半には中国にも抜かれてしまいました。2010年にはインドネシアにも抜かれ、現在に至ります。かつてはアジア期待の星と目されていた1960年代からは、想像もできない没落ぶりです。

フィリピンの経済人は、今も1960年代の繁栄ぶりを懐かしがっています。ただし、1960年代も、今日とさほど変わらない貧富の差が存在していました。1人当たりの国民所得が高かったのは、少数の富裕層が莫大な収益を上げていたからです。

当時の農村部の暮らしは、貧困を極めていました。なぜ、当時から貧富の差が激しかったのかといえば、植民地時代の影響を受けていたからです。

スペインによる植民地時代に培われた貧富の格差

http://philippinesreport.com/philippine-history/

フィリピンは1521年にマゼラン率いるスペイン艦隊がセブ島に上陸して以来、スペインの植民地でした。フィリピンはスペインのアジア侵略の拠点となり、これより苦難の歴史を歩むことになります。フィリピンの人々は激しい抵抗運動を繰り返しましたが、スペインの圧倒的な軍事力の前に為す術はありませんでした。

急速に貨幣経済へと切り替わったことで、フィリピンの人々はなにもわからないまま借金を重ね、次々に土地と財産を没収されていきました。フィリピンの多くの人々は、事実上、スペイン人の奴隷となり、強制労働などで酷使されたのです。

当時、フィリピンではたばこ・サトウキビ・マニラ麻などが主として生産されました。世界的に需要が拡大したため、それらの輸出作物は盛んに生産されるようになり、スペインを豊かな国へと変えていきました。その際、フィリピンの人々をスペインにおとなしく従属するように広められたのがキリスト教のカトリックです。今でもフィリピンでは、国民の8割から9割がカトリック教徒です。輸出作物の大農場を所有していたのは、はじめの頃はカトリック教会や地方総督でした。輸出作物が盛んになるとともに、スペイン人入植者がこれに加わりました。

さらに、スペインの支配を固めるために、現地人の支配層が作り出されました。この時点で旧来からフィリピンにあった支配の構造は、すべて覆されています。その結果、フィリピンの潤った大地はほとんどがカトリック教会・地方提督・スペイン人入植者・現地人支配層の持ち物となり、フィリピンの人々は小作人として、事実上の奴隷労働を強制されたのです。小作人の生活は重税に縛られており、収入はわずかなものでした。ほとんどの人々が、食べていけるかどうかというぎりぎりの貧困状態に追い込まれました。

その一方、現地人の支配層はスペインとつながることで、私腹を肥やしていきました。フィリピンにおける貧富の差は、こうしてスペインの植民地時代に構成されました。

アメリカによる植民地支配

http://www.slideshare.net/CarloPMarasigan/organic-laws-implemented-in-the-philippines-and-heroes
スペインからアメリカの植民地へ

380年に及ぶ長い歳月に渡り、フィリピンはスペインの植民地として利益をしぼり取られてきました。その間も侵略者であるスペインへの抵抗は止むことがなく、繰り返されました。そのたびに多くのフィリピン人が、スペイン軍によって虐殺されていきました。

それでも、1898年にはフィリピンからスペイン軍を追い出すことに成功し、ついに念願の独立を勝ち取りました。しかし、スペインから2000万ドルでフィリピンを買い取ったアメリカは、フィリピンの独立を認めませんでした。独立を求めるフィリピンとアメリカの間で戦争が起き、少なく見積もっても20万人以上のフィリピン人がアメリカ軍に殺されたと、米議会にて報告されています。

スペインに代わって、フィリピンはアメリカの植民地となりました。当時は欧米列強によるアフリカやアジアの植民地化が、当然のごとく行われていました。下の地図は、欧米の植民地になったことがある国を色分けした世界地図です。

http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Colonialism

青の部分が植民地になったことがある国、水色が半ば植民地化されていた地域、灰色が欧米の植民地になったことがない国です。地図を見れば欧米による植民地化が、アジアとアフリカのほぼ全土に渡って繰り広げられていたことがわかります。

灰色の国はごくわずかです。アジアで事実上、植民地とならなかったのは、日本と日本が合併していた朝鮮と、タイのみです。白人による黄色人種や黒人に対する植民地支配には、激しい人種差別がまかり通っていました。

アメリカによるフィリピン支配の実態
http://philippines1900.tumblr.com/post/264595846/education-as-a-colonial-tool

アメリカはスペインやフランス・イギリス・オランダなどが、アジアの植民地で暴虐な圧政を敷いたことで、占領政策に苦労していることを見ていたため、フィリピンに対しては他国に比べて穏やかな支配を行いました。

インフラが整備され、学校がフィリピン各地に建てられました。通常、植民地には愚民政策がとられることが多いなかで、植民地支配した国に教育を施すことは珍しい例です。愚民政策とは、原住民に教育を施さないようにするための政策です。たとえばオランダが植民地にしたインドネシアでは、基本的に現地人への教育が禁止されていました。

植民地の人々に積極的に教育を施したのは、アジアではアメリカと日本だけです。アメリカは教育により、スペイン統治下にフィリピン社会に根付いた貧富の差を解消しようと努めました。当時のアメリカの教育局長は次のように語っています。

人々は,貴族階級の無軌道な統率と圧政に,生まれつき逆らうことなく身を任せている。スペイン人はこれを「ボス支配」と呼んだ。本諸島の政府はあらゆる手段と政策をもって,これを打破しなければならない。上記の必然的帰結として,我々の公立学校制度は大衆のためのものとなるべきである。

アメリカのフィリピン植民地教育政策とフィリピン社会の対応 より引用

しかし、現実は異なりました。教育現場の思いとは裏腹にアメリカは、フィリピンにすでにできあがっていた支配の構造を、壊さないまま利用する政策をとりました。380年のスペイン支配の間に、スペイン人と地元民とは混血しました。彼らはメスティーソと呼ばれました。スペイン時代の終わりには、メスティーソを中心とする強い支配構造が、フィリピンを覆っていました。

この既存の支配構造を壊して新たな支配構造を作るとなると、時間もかかれば、激しい抵抗を武力で抑えつけなければならなくなります。アメリカはこうした無駄を省き、すでにできあがった支配構造を利用しながら、自分たちの利益を得ようとしたのです。

こうしてアメリカは、スペイン統治下の支配構造をそのまま受け継ぎ、プランテーションと呼ばれる大規模農場経営をフィリピンで展開しました。つまり、アメリカの植民地となっても、フィリピンに横たわる貧富の差は、まったく解消されなかったのです。

アグリ・ビジネスとフィリピンの支配構造

スペインやアメリカがフィリピンなどの植民地で展開した農業を、アグリ・ビジネスと呼びます。アグリ・ビジネスとは、食品としてではなく、商品として農作物を扱う農業のことです。

プランテーションでは、低賃金労働が強いられました。もちろんフィリピン人には、これを拒否する自由はありました。しかし、人口があり余ったフィリピンでは、たとえ低賃金であっても仕事にありつけるだけましであり、働き手はいくらでもいました。また、プランテーション内部には労働者向けの小売店が設けられており、労働者がそれを利用することで、給与の一部が土地所有者に戻っていく仕組みになっていました。

このような条件下では、プランテーションで働くフィリピン人がいつまでも貧困から抜け出せないのは、当然です。ちなみに、周辺諸国に比べてフィリピンで人口が増え続けているのは、カトリックの影響です。カトリックでは中絶や避妊が禁止されていたため、人口は増える一方でした。キャパシティを超えて増え続ける人口の問題は、現在もフィリピンを苦しめています。カトリック教会の圧力に屈することなく、ドゥテルテ政権は避妊を広めようとしています。

フィリピン人の多くは、プランテーションでの低賃金労働に甘んじるか、土地所有者の小作人となってわずかばかりの収入を得るかの、どちらかを選ぶよりありませんでした。どちらを選んでも、食をつないでいけるかどうかわからない貧困生活が待っていました。

そのなかで台頭してきたのが、中華系のメスティーソたちです。アメリカの経済圏に組み入れられたフィリピンでは、プランテーションで産出された農作物が、中華系の企業を仲立ちとしてアメリカ本土のアグリビジネスへと送られました。ここに、現在のフィリピンの原型を見ることができます。

フィリピンの大地が生み出した利益は、スペイン系大地主と中華系商人が吸い上げ、アメリカのアグリビジネスを潤わせます

スペイン系大地主と中華系商人の家系は現在、財閥となり、フィリピンの経済を支配しています。財閥や一部の地主が大規模な土地を所有している状態は、現在も続いています。フィリピンに中間層が育たない最大の原因は、土地を所有できないからです。

独立後も続くアメリカの支配

1946年:マニラ条約に調印するトルーマン大統領 http://thephilippinesamodernhistory.blogspot.com/1946年:マニラ条約に調印するトルーマン大統領

ここまで、フィリピンの貧富の差が、スペインとアメリカによる植民地支配によって構造的になされてきたことを紹介しました。でも、ひとつ疑問が残ることでしょう。

植民地政策には多少の違いはあるものの、どのアジアの国でもさほど違いはありません。植民地での支配をたやすくするために、現地での支配層が生まれ、宗主国の人々による移民が行われ、その国の支配の構造が生まれます。そこに中華系の人々が支配層の一角として入り込む構図も、大差ありません。

つまり、フィリピンばかりでなく周辺諸国にしても、欧米の植民地政策により強制的に貧富の格差を生む社会が作られたのです。しかし、周辺諸国が次々と貧富の差を解消しているのに対して、フィリピンだけは取り残されたままです。その原因はどこにあるのでしょうか?

力で勝ち取った独立と与えられた独立の違い

http://idreamofbali.com/blog/indonesian-independence-day/#.WItzPhuLSUk

その大きな原因として、独立後もフィリピンでは、アメリカの経済植民地としての状態が長く続いたことがあげられます。

そもそも独立に至る経過が、周辺諸国とフィリピンでは異なります。日本が戦争に敗れ、駐留していたアジア諸国から軍を引くと、旧宗主国の軍隊は再びアジア諸国を植民地にするために舞い戻ってきました。しかし、日本軍が去ったあとのアジア諸国は、植民地として半ば奴隷のような待遇に甘んじていた頃とは明らかに違っていました。

たとえばインドネシアは日本が連合国に降伏した後に独立を宣言し、舞い戻ってきたオランダ軍と戦争に突入しました。インドネシアに残っていた日本兵の多くがインドネシアのために立ち上がり、インドネシア兵とともに戦いました。この戦争では一千名以上の日本兵が戦死しています。

戦争は4年5ヶ月に及び、80万人以上のインドネシア人が犠牲になりました。そうして多くの血を流すことで、インドネシアは独立を果たしたのです。アジア諸国は独立とともに、宗主国の支配を離れ、植民地時代に作られた支配構造を変えていきました。ところがフィリピンは例外で、独立を達成したあともアメリカが事実上、フィリピンの経済に影響を与え続けました。

アメリカの経済支配を支えたベル通商法

http://tagalogrepublic.blogspot.com/2009/11/us-grants-philippines-independence.html

アメリカがフィリピンを経済的に支配する礎となったのが、悪法として名高い「ベル通商法」です。これはフィリピンにとって、完璧な不平等条約でした。ベル通商法には、アメリカ資本やアメリカ企業は、フィリピン全土の天然資源の開発を自由に行えること、公共事業を運営する際に、フィリピン人となにも変わらない平等の権利を認められること、28年間の特恵関税などが定められていました。

つまり、独立とは名ばかりで、実質的にはフィリピンは、アメリカの経済植民地として搾取(さくしゅ)され続けたのです。スペイン系大地主と中華系商人による支配構造には、なにも変化はありませんでした。彼らはアメリカの企業と結びつき、蓄財に励みました。その一方で、フィリピンのほとんどの人々は、貧困のなかに取り残されました。

その間、反米デモは何度か起きましたが、大きなうねりにはなりませんでした。今日ではドゥテルテ大統領の反米よりの暴言が話題になっていますが、それはなにもドゥテルテ大統領だけの特別な思いではありません。

フィリピン人のなかには、反米への思いが連綿と受け継がれています。ベル通商法は名前を変えながらも生き続け、その後フィリピンを30年近く縛り続けました。その名残は現在も、けして消えてはいません。

貧富の差をなくすには?

フィリピンのスモーキーマウンテン https://fan-interference.com/2015/12/29/baseball-in-the-philippines-the-smokey-mountain-field-of-dreams/

フィリピンの貧困をなくすための方法については、多くの経済学者の見解が一致しています。なによりも急がれるのは、農地の解放です。農地が解放されない限り、フィリピンの貧困はなくなりません。

小作人でいる限り、農作物のほとんどを地主に収めなければいけません。ひどい地主になると、農作物の9割を奪われるため、小作人ではまともな暮らしを送ることはできません。そのため、フィリピンの農民のなかには小作人をやめて、都会を目指して上京する人が増えました。そうした貧困者が、ゴミ捨て場に勝手にバラックを建てて住み着くようになったのです。

こうして、スモーキーマウンテンが作られました。日本のテレビでもたびたびその状況は紹介されています。水道も電気もない悪臭が漂うなかで、多くの貧困者が生活しています。しかし、フィリピンでの農地改革は進んでいません。フィリピンの支配層である財閥は政治の世界にもすっかり根を下ろしています。

地方も例外ではなく、財閥や地主の一族から政治家が生まれ、地方の政財界を牛耳っています。そこには貧困を是正するどころか、富めるものをさらに富ませ、貧しき者をさらに貧しくする構造が横たわっています。

中央では農地改革を阻む勢力として財閥と政治家が結びつき、アメリカのアグリビジネスを行う企業と関係を深めています。両者の利害は一致しています。反アグリビジネスに身を投じた活動家や弁護士、その真実を暴こうとしたジャーナリストは、暗殺など不審な死を遂げるのがフィリピンの現実です。

ドゥテルテ政権による抜本的な農地改革

http://www.trendingnewsportal.net.ph/2016/10/president-duterte-questions-rule-asking-funds-from-farmers-for-farm-tractions.html

こうした光が見えない状況のなかで、ドゥテルテ政権が2016年よりはじまりました。

歴代大統領のなしえなかった農地改革への期待が、ドゥテルテ大統領に寄せられています。前アキノ大統領は地主の一族出身であり、農地改革には消極的でした。財閥や地主とはなんの関係ももたないドゥテルテ大統領であれば、思い切った農地改革ができるのではないかと、大いに期待されています。

ドゥテルテ大統領とマリアノ農地改革相は、大統領自身が委員長となる農地改革委員会(PARC)を、およそ10年ぶりに復活させました。2022年までに約6,210平方キロの農地を農民に分配すると発表しています。農地改革法はマルコスが大統領だった時代に制定されましたが、実質的な成果をあげることはできませんでした。

マルコスが親族を優遇し、汚職がはびこったことはたしかですが、その一方でマルコスは独裁政権を敷くことで、財閥の力を強制的に剥がそうとしたことも事実です。マルコスの試みは失敗に終わり、財閥は再びフィリピンの政財界に返り咲き、今日を迎えています。マリアノ農地改革相は、「大地主たちが画策してビジネスを立ち上げては農民に利益を還元せずに独占し、状況がここまで悪化した」と発言しています。

貧困が解決しない原因を徹底的に探るために、新たな機関を設ける必要があるとも主張しています。フィリピンの政財界に大きな影響力を及ぼす財閥と財閥寄りの政治家、そしてアメリカ資本とドゥテルテ大統領陣営の対決は、水面下でじわじわと進行しています。

フィリピンに横たわる貧富の差を、ほんとうに埋める方向に舵を切れるのかどうかが、大いに注目されます。