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75th スリガオ海峡海戦 Commemoration of the Histrionic Battle of Surigao Strait [セブ島通信5月号]

75th スリガオ海峡海戦 Commemoration of the Histrionic Battle of Surigao Strait [セブ島通信5月号]

日本人会 安藤尚子

 2019年10月24・25日、フィリピン ミンダナオ島の最北端にあるスリガオ市では、第二次世界大戦 スリガオ海峡海戦 75周年式典が、街をあげ盛大に催され75周年の節目に相応しいものとなりました。 式典には日本、フィリピン、オーストラリア、アメリカの軍関係者や政府関係者が参列。ゲストとしてオーストラリアから、今年で5年連続の参列となる重巡洋艦 『Shripshire』の砲術士だった David Mattiske 氏(94歳)と Guy Griffiths 氏当時大尉(97歳)が参列しました。

彼らの左胸には数々の勲章が英雄の証しとして輝いていました。 セブ島からも石田武禅氏と3名がスリガオ市の招待を受け参列しました。 スリガオ海峡海戦では6隻の日本海軍の艦が沈没し4.000名の日本兵と39名の米兵が亡くなりました。 10月24日スリガオ市内の北スリガオ公立高校敷地内にある「日本将兵火葬の地」で慰霊祭が行われました。

この記念碑が建っている場所は、当時日本軍 歩兵第41連隊第3大隊の大隊本部ありました。1944年9月、米国が日本からフィリピンを取り戻すため、スリガオ市内を空襲した際に死亡した約500名の日本兵士と軍属のご遺体が荼毘に付された場所です。記念碑は、2007年10月25日に地元の方々のご尽力により建立されました。碑建立にあたってはスリガオ博物館館長 Fernando A Alameda Jr. 氏、理事長 Dr. Lrinetta C Montinola 氏、マニラ大教授 Leslie E Bauzon 氏らが中心となり、費用の大半は私費や募金でまかなわれました。

「日本将兵火葬の地」慰霊祭では、僧侶でもある石田武禅氏が仏教式でお経を唱え、福田防衛駐在官に続きお焼香をあげました。続いて記念碑の周りに花輪が献花され、キャンドルの灯りとともに祈りが捧げられました。フィリピン少女が日本語で唄う「ふるさと」は私達日本人の心に深く響きました。日本将兵らの気持ちをまさに代弁している歌詞でした。

「父母は今元気で暮らしているんだろうか… 友は平穏無事に暮らしているんだろうか… どんな時も思い出されるのは故郷… いつの日か帰ろうあの故郷へ…」 真っ白な詰襟に5つの金ボタンの士官制服を身にまとった海上自衛隊二等海佐である福田防衛駐在官は、まさに75年前にこのスリガオ海峡で散った大日本帝国海軍将兵らの後輩にあたります。

そして、戦後スリガオ市が毎年行っているスリガオ海峡海戦記念式典に参列した最初の日本政府代表(海軍代表)になりました。このスリガオ海峡に散った大日本帝国海軍将兵らも、彼の訪問を75年間心待ちにしていた事でしょう。 午後からは、スリガオ市の突端の岬に完成したスリガオ海峡海戦メモリアルパークとミュージアムの除幕式が行われました。純白のメモリアルは艦首をイメージした形になっており、その先には紺碧色に輝くスリガオの海が見渡せます。このメモリアル建設には歴史家でもある Jake Miranda 氏がスリガオ市に働きかけ、建設の為2.000万pesoの予算を計上し今年実現しました。

メモリアルの最上段の壁面には、昨年の式典でのDavid Mattiske 氏のメッセージが刻まれています。 “Let us pray : that we never have another world war” (共に祈ろう、我々はもう一つの世界大戦が二度と起きぬように) 除幕式で日本、フィリピン、オーストラリア、アメリカの代表者がテープカットをすると、それまでの緊張感ある空気から一変、穏やかな空気が流れ、関係者は各々にメモリアルパークを散策しました。

夜には約500名の政府・軍関係による夕食会がTavern Hotel で催されました。明日の洋上慰霊の為にスリガオまで航海してきたMayer オーストラリア海軍中将と、アンザック級フリゲート鑑『STUART』、調査船『LEEUWIN』、哨戒艇『ARARAT』、給油艦『SIRIUS』の乗組員らと一緒に、フィリピン料理、フィリピンの伝統的なダンスや歌を楽しみました。

また、資産家でマイクロソフト創業者 Paul Allen 氏が率いる沈没船調査チームがスリガオ沖の海底で発見した戦艦『山城』『扶桑』駆逐艦『満潮』『朝雲』『山雲』の映像も上映されました。いずれもスリガオ海峡の海底にあり、戦艦『山城』と『扶桑』は上下逆さまで壊れた船体からは当時の激しい戦闘と沈没時の様子が伺い知れました。

10月25日早朝、まだ薄暗い夜空に三日月がくっきりと光る中、スリガオ海峡海戦メモリアルパークで式典が始まりました。はじめに入り口で出迎えてくれたのは、整列した若いフィリピン海軍水兵らでした。軍楽隊の生演奏の中、ゲストが入場します。6時10分、石田武禅氏がスリガオ海峡に向けお経を唱えました。

朝陽はまだ昇らずとも、空が徐々に明るくなってきました。ピンク色の雲の帯「ビーナスベルト」は眠っていた御霊が優しくメモリアルパークを包み込むような光でした。 広場では4ヶ国の国旗掲揚と国歌斉唱が行われました。フィリピンに続いて日本…、福田防衛駐在官が敬礼をし日本国旗を見上げます。夜明けの静寂の中、日比豪米4ヶ国の国旗が力強くはためいていました。各国代表者が献花をし、平和の灯火に点火をしました。7人のフィリピン兵士が小銃で空砲を空に向けて撃つ弔銃、斉発3回により式の終了を告げ、last post(軍葬ラッパ)の音色が岬に響き渡りました。

祭壇でのスピーチで福田防衛駐在官は、 “We never forget that the peace and prosperity we enjoy at this moment was built atop the precious sacrifice of the war dead…We must never again repeat the devastation of war.” (私たちがこの瞬間に享受する平和と繁栄が、戦没者の貴重な犠牲の上に築かれたことを、私達は決して忘れません…私たちは再び戦争の惨状を繰り返してはなりません) 歴史家の Jake Miranda 氏は “Surigao, by fate, is now the graveyard of 4,000 Japanese, We’ll wait for the Japanese families to visit. The view deck, the memorial is ready for Japanese families to visit and pray because there, right in front, is the grave of their relatives.” (スリガオは運命によって今、4,000人の日本人の墓地です。私達は日本の家族が訪問するのを待ちます。メモリアルの展望台は日本の家族が訪れ亡くなった親族の祈りの場となって欲しい。) スリガオ市長の Ernesto Matugas Jr.氏は、 “We are gathered here to honor those who have dedicated and sacrificed their lives for the attainment of peace.Let us continue to live in peace and avoid conflict in whatever form, manner or guise. Let us respect each country’s beliefs, embrace our cultural differences, and rejoice in our diversity.” (私たちは平和のために命を捧げ犠牲にした人々を称えるためにここに集まっています。平和に生き続け、どんな形、方法、装いでも争いを避けましょう。 各国の信念を尊重し、文化の違いを受け入れ、多様性を楽しみましょう) そして最後に “The last thing we would want is really to get into war with each other, because in war, there is no winner. Everyone is a loser.” (私たちが最後に望むことは、戦争に勝者はいない、誰もが敗者だからです) とメッセージを伝えました。

そして全ての式典が終わったと同時に、夜明けのスリガオの海に大きな虹がかかりました。 数日前の10月22日、日本では即位礼正殿の儀が始まった途端に雨が止み、皇居には2本の大きな虹がかかり富士山が顔を出しました。4.000名の日本兵が眠っているここスリガオ海峡でも同じ様に大きな虹がかかりました。

日本神話の中に、イザナギとイザナミが下界に降りて来る時に虹を渡って来たとあります。虹はまさに天界と下界を結ぶ橋なのです。天から神がスリガオ海峡に眠る御霊をお迎えに来た、やはり日本には特別な神の力が存在しているに違いない…そんな風に感じずにはいられませんでした。

虹の感動も冷めやらぬ中、次はスリガオ海峡沖での洋上慰霊へ出航しました。私達日本人はフィリピン海軍の沿岸警備船に乗船しました。沖に出ると対岸には先ほどまで式典を行なっていたメモリアルパークが見えます。 スリガオの海にはオーストラリア海軍のアンザック級フリゲート鑑『STUART』、調査船『LEEUWIN』、哨戒艇『ARARAT』、給油艦『SIRIUS』、フィリピン海軍のフリゲート鑑『CONRADO YAP』、沿岸警備艇『ISMAEL LOMIBAO』と『RAFAEL PARGAS』、沿岸警備隊の多目的対応船『MALAPASCUA』が洋上慰霊に参加しました。私達もそれぞれの思いを込めて大海原に白い菊の花を捧げました。白い花は、波に大きく揺られてやがて静かに海へと消えて行きました。

又、メモリアルパークにはリニューアルオープンしたスリガオ海峡海戦ミュージアムがあります。 小さなミュージアムですが、真っ先に目に入るのは大日本帝国海軍旗である旭日旗です。静動ともに毅然たる美しさがあります。旭日旗の前にはスリガオ海峡海戦に参加した西村艦隊の7隻(戦艦『山城』『扶桑』重巡洋艦『最上』駆逐艦『時雨』『山雲』『満潮』『朝雲』)の艦艇模型が展示されています。

壁には西村祥治艦隊司令のお写真と一緒に凛々しい顔立ちの水兵さんらの写真もあり、大砲を磨いている写真や上半身裸で体操でもしている写真もあります。写真からは海戦前の穏やかな鑑上の様子が伺えます。ミュージアム中央にはスリガオ海峡から引き揚げた大日本帝国海軍93式魚雷も展示されていました。他にも様々な遺留品やレプリカが展示されています。

スリガオ市は一人でも多くの日本人の訪問を心待ちにしています。 2日間に渡るスリガオ海峡海戦75周年式典は、この戦いで亡くなった全ての御霊に安らぎを与えたことでしょう。そして私が何よりも感銘を受けたのは、スリガオ市の人々の寛大な心です。第二次世界大戦でフィリピンは、日米間の戦いで戦場と化したに過ぎません。

多くのフィリピン人がこの戦争に巻き込まれ命を落としました。恐らく、今回の式典関係者の中にも親族や知人が戦火に巻き込まれて亡くなった方も居るはずです。その彼らが中心となり、スリガオで亡くなった人々を国籍や敵味方を問わず英雄として讃え祈ってくれる事に頭が下がるばかりです。彼らは言います。

“we want to honor all those who fought in the battle in Surigao Strait, all those soldiers Japanese, Australians, Americans, Filipinos.” (我々はスリガオ海峡海戦で戦った全ての兵士にに敬意を表したい) 【戦史概要】 1944年10月20日〜25日 史上最大の海戦と言われるレイテ沖海戦 (シブヤン海海戦・スリガオ海峡海戦・エンガノ岬沖海戦・サマール沖海戦) 日本海軍、アメリカ海軍、オーストラリア海軍との間で交わされた海戦 栗田健男海軍中将率いる第一遊撃部隊は、栗田主隊(第一部隊・第二部隊)と、西村祥治海軍中将率いる西村支隊(大三部隊)に分け、22日にブルネイを出撃。

さらに小沢艦隊(機動部隊)、志摩艦隊(第二遊撃部隊)もそれぞれ異となるルートで進撃し、米軍の泊地であるレイテ湾に10月25日未明に同時突入させる作戦であった。24日、栗田艦隊はシブヤン海で米艦隊から攻撃を受け戦艦『武蔵』が沈没、被害拡大を避け予定を大幅に遅れ進撃していた。

一方、西村鑑隊は予定通りレイテ湾手前の駅にスリガオ海峡に達していた。 [スリガオ海峡海戦] 10月24日深夜、西村艦隊7隻(戦艦『山城』『扶桑』重巡洋艦『最上』、駆逐艦『満潮』『朝雲』『山雲』『時雨』)はレイテ湾へ突入すべくスリガオ海峡入口に到達した。

レイテ湾内偵察のため重巡洋艦『最上』の水偵1機を発進させる。周辺はスコールが降り出していた。 22時52分 駆逐艦『時雨』より「敵発見!」。敵魚雷艇が攻撃を仕掛けてきたが、防御砲火で敵からの命中弾はなく双方損害はなかった。 ここを無事通過すればレイテ湾だが、スリガオ海峡は幅30km・長さ80kmと狭く、最大速力で航行しても2時間は優にかかる。狭い海峡では思うように敵からの攻撃をかわす回避航行も出来ない。

なおかつ敵の待ち伏せも十分あり得る。 10月25日01時30分、旗鑑である戦艦『山城』に座乗した西村祥治海軍中将率いる西村艦隊は、単独スリガオ海峡への単独突入を決定。 01時48分 20ノットに増速し、艦首を北上に向けてレイテ湾突入態勢に入る。 西村艦隊は『満潮』→『朝雲』→『山城(旗艦)』→『扶桑』→『最上』、『山城(旗艦)』の右に『山雲』、左に『時雨』という単縦陣で海峡に侵入した。

しかしこの後、西村艦隊を待ち受けていたのは圧倒的な数を上回る敵艦隊だった。戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻。夜間海上戦の火蓋が切られた! 03時10分 米駆逐艦の放った魚雷のうち一本が戦艦『扶桑』の右舷中央部に命中し大爆発を起こし、船体が2つに折れたまま炎上しながらしばらく漂流した後、04時20乗組員とともに海底に沈んでいった。 03時20分 敵駆逐艦の放った魚雷のうち4本が、先頭を行く駆逐艦『満潮』の左舷に命中、艦体は一瞬で真っ二つに折れ、あっといまに海底に消えていった。

西村艦隊は進撃を止めることなく突き進む。 そこへ、敵駆逐艦隊の第2波が突入してきた。 駆逐艦『山雲』は魚雷が命中し沈没、駆逐艦『朝雲』は魚雷攻撃により艦首を喪失、低速で反転離脱したが、追撃してきた米巡洋艦及び米駆逐隊の集中攻撃を受け沈没した。 駆逐艦の大半を失った西村艦隊は、さらに第3波の敵艦隊の攻撃をも許してしまう。 03時23分 旗艦の戦艦『山城』は魚雷1本が当たったが、航行に支障はなかった。

すでに、戦艦『山城』『最上』と駆逐艦『時雨』のみとなっていた西村艦隊は、スリガオ海峡の出口に差し掛かりつつあった。西村中将はレイテ湾突入に向け、艦隊に最後の命令を下した。 「我魚雷ヲ受ク 各艦ハ前進シテ敵艦隊ヲ攻撃スベシ」 03時51分 米艦隊の戦艦6隻と巡洋艦8隻が海峡の出口を半円状に取り囲むように西村艦隊を待ち受けていた。いわゆる「T字陣形」で待ち構えた敵艦隊にIを描く圧倒的に不利な状況に西村艦隊はいた。敵の砲撃が一斉に火を噴く。 まず、旗艦の戦艦『山城』が被弾し艦橋下に火災が発生。

3・4番砲塔は使用不可となり、1・2番砲塔のみで応戦した。さらに敵駆逐艦からの雷撃を右舷機械室付近に受けて速力が低下、直後に4本目の魚雷を受けて徐々に船隊が傾きはじめた。その後に、火薬庫に引火し大爆発を起こし艦橋が崩れ落ちた。火だるまになりならがらもなお『山城』は1・2番主砲から反撃し大奮戦したがついに力尽きる。04時19分 艦尾より転覆して沈没した。西村中将、篠田艦長以下『山城』乗組員の殆どが船と運命を共にした。 03時50分 重巡洋艦『最上』が敵からの集中砲火を受けはじめ、3番砲塔と中央に被弾し火災が発生した。03時55分 南方へ避退を開始する。

04時02分 艦橋に2発、防空指揮所に1発が命中し藤間艦長ら最上幹部らが全員戦死した。駆逐艦『時雨』はこれを見て、部隊は既に全滅したと判断し反転離脱を開始、砲弾1発が艦後部に命中し燃料タンクを貫通したが不発で、奇跡的にほとんど損傷を負わなかった。大破した重巡洋艦『最上』は、この隙に敵艦隊の射程圏外に離脱した。 2時間遅れてスリガオ海峡に到着した志摩艦隊が見たものは、闇とスコールの中、炎上する『最上』真っ二つに分かれて燃えながら漂流する『扶桑』あちこちで上がる炎であった。駆逐艦『曙』は危険を冒して『最上』の護衛に当たる。左舷後部に接舷し生存者乗組員を移乗させた後、12時30分 『曙』は『最上』の雷撃処分を行った。

西村艦隊は、駆逐艦『時雨』を除き全てスリガオ海峡に消えて行った。この史上最後となる戦艦同士の海戦は、“スリガオ海峡の悲劇”と呼ばれることとなる。 *第一遊撃部隊 第三部隊(西村艦隊) 指揮官:西村祥治海軍中将 戦艦 : 旗鑑 山城(篠田勝清少将)・扶桑(阪匡身大佐) 重巡洋艦 : 最上(藤間良大佐) 駆逐艦 : 時雨(西野繁少佐)・山雲(小野四郎少佐)・ 満潮(田中和生少佐)・朝雲(柴山一雄中佐)