
〜修理費ご寄付のお願い〜
今日、フィリピンは、国民の大半が日本人に親しみを抱く親日国家として知られています。
しかし、まさかフィリピンが現在のような親日国家に生まれ変わるとは、第二次世界大戦が終わった直後の状況からすれば、想像さえできないことです。
今からおよそ80年前にあたる1941年、日本は米軍基地のあるハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカを中心とする連合国との戦争に突入しました。いわゆる太平洋戦争です。
太平洋戦争において、最大の激戦地となったのが、当時はアメリカの植民地だったフィリピンです。フィリピン諸島にて日米両軍は激しく戦い、日本人戦没者は51万人を超えています。外地での犠牲者数としては、戦時中最大です。
ただし、多くの犠牲者が出たのは日本だけではありません。激しい戦いが繰り広げられたフィリピンの島々には、多数のフィリピン人が暮らしていました。フィリピン人の戦没者数は111万人以上といわれています。
戦後75年という長い歳月が過ぎた今、太平洋戦争に関する歴史認識はさまざまです。ここで、その是非を問うことはしませんが、日本人にとってもフィリピン人にとっても不幸な時代であったことは間違いありません。
二度とあのような戦禍を繰り返さないためにも、現代の平和が多くの犠牲者の屍の上に成り立っているという事実を、私たちは忘れるべきではないでしょう。
だからこそ、フィリピンの戦いによりこの地で亡くなった全ての人の慰霊を、私たちセブ日本人会では毎年欠かすことなく続けてきました。
慰霊のシンボルとして親しまれてきたのが、セブ島のマルコポーロホテルの一角に建つ、台座を含めて高さ4.6メートルに及ぶ青銅像「セブ観音」です。
毎年8月15日には、日本とフィリピン双方の遺族をはじめとして多くの人々が集い、セブ観音慰霊祭が執り行われています。慰霊を行うとともに、戦時中にセブで何があったのかを語り継ぐことを目的としています。
戦史だけが歴史ではありません。日本人もフィリピン人も祖国のために、そして祖国に暮らす父母や弟妹、妻や子供たちのために、多くの軍人が散華したことは事実ですが、戦禍の巻き添えとなり命を落とした民間人も、あまたいました。
戦時中の記憶を語り継ぐことは後世に残された私たちの責務であると、セブ日本人会では考えています。
ところが、日比両国の慰霊のシンボルであったセブ観音像の一部が、心もとない人によってもぎ取られ、盗まれるという事件が起きてしまいました。

盗難は2回に分けて行われ、1回目は観音像の背中にある光背が、2回目は観音像が手にした蓮の花が無残にももぎ取られ、何者かによって持ち去られたのです。
セブ日本人会では八方手を尽くして盗難の行方を追いかけましたが、残念ながら未だに発見には至っていません。
慰霊と平和への誓いを新たにするための象徴であったセブ観音像が破損したことは、私たちセブ日本人会にとって大きなショックとなりました。
しかし、毎年慰霊祭に訪れてくれる遺族の方々のためにも、2021年の8月15日までにはセブ観音像の修復を行いたいと決意しています。
ただ問題は、セブ日本人会の会員数は百名前後に過ぎないため、セブ観音像修復の予算がままならないことです。
そこで、皆様のご寄付にて修復のための費用を捻出したいと考えています。
セブ観音が建立されたいきさつ、及び日本とフィリピンに横たわる憎悪と赦しの物語について、これから紹介させていただきます。
セブ観音像の趣旨に賛同していただける方のご協力を、心待ちにしております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
セブ観音と神風特攻隊
故国日本から離れ、異国のフィリピン・セブ島で暮らす私たちにとって、セブ観音は戦火に包まれたあの日のセブと、現在をつなぎ合わせるメモリアルとしての役割を果たしてきました。
かつて、この地で、民間人を含む多くの同胞の命が失われ、まだ20歳そこそこの若い兵たちが散華しました。
マルコポーロホテルの厚意によって建立を許されたセブ観音がある場所は、戦時中セブが米軍の空襲にあった際、迎撃に飛び立ったゼロ戦の一機が撃墜され、墜落した地点です。
ここからほど近い中腹に、「日の丸陣地」と呼ばれる日本海軍の拠点が置かれていました。上陸した米軍は日の丸陣地に襲いかかり、激しい戦闘の末、多くの日本兵が命を落としています。
かつては、このあたりに六基の卒塔婆が立っていました。それらを一カ所にまとめ、永久碑として建立されたのがセブ観音です。かつてセブで戦ったセブ海軍部隊や陸軍挺身第3、第4連隊所属の元日本軍人有志によって建立されました。
セブ観音が見据える先は、かつてセブ基地があった場所です。現在は経済特許区ITパークとして繁栄している場所には戦時中、日本海軍の航空基地があり、神風特攻隊がここから出撃しました。
「神風特攻隊」といえば映画化もされた百田尚樹著「永遠の0」を観た方、読んだ方も多いことでしょう。
神風特攻隊が実戦に投入されたのは、フィリピンの戦いが初めてです。説明するまでもありませんが、神風特攻隊はゼロ戦などの戦闘機に爆弾を装填し、機体ごと敵空母などの艦船に激突する任務を負った部隊です。
「九死に一生」という言葉がありますが、神風特攻隊は一度飛び立ったら最期、生きて生還する望みはまったくありません。まさに「十死零生」が必至の特殊部隊でした。
特攻機による戦死者第1号として敷島隊の関行男大尉が有名ですが、実は関大尉より4日早くセブ基地から特攻機として出撃したまま未帰還となった機がありました。大和隊の久能中尉です。関大尉が「特攻第1号」と呼ばれることにちなみ、久能中尉は「ゼロ号の男」と呼ばれています。
特攻に出撃する前夜、ピアノに堪能だった久能中尉は、士官用の食堂に置かれたピアノを奏でました。セブ基地に響き渡るベートーヴェンのピアノソナタ「月光」は、いつになく澄み切った音色であったと記録されています。
明日、特攻にて死する身と覚悟しながら、久能中尉はどのような思いで今生最期となるピアノを奏でたのでしょうか。
ピアノの音色を聴きながら、多くの兵や整備士官はあふれる涙を堪えることができずに、泣きじゃくっていたそうです。
セブ基地から初めて特攻機が飛び立って以来、神風特攻隊は幾度も繰り返され、多くの若者を死地に追いやりました。今日から冷静に振り返るならば、神風特攻隊が非人道的であり、非難されるべき作戦であったことは否定できません。
しかし、20歳前後の若者の多くが特攻隊に志願し、米軍有利の戦勢をなんとか挽回しようと自らの命を捧げたことは、紛れもない事実です。
彼らが願ったことは、米軍の侵略から日本本土を守ることであり、彼らの家族や友人など大切な人を守ることでした。
特攻機に乗り込んだ、まだ二十歳そこそこの若者たちは、上空から一気に下降し、米空母の甲板を目がけて突撃しました。急下降のために、操縦桿を一気に押し倒すときの彼らの心境はいかばかりであったことか……。
平和な時代を生きる私たちには、その当時の彼らの思いを正確に感じとることなど、とてもできそうにありません。それでも、国を守るため、ひいては故郷に暮らす父母や兄弟姉妹、妻や子供を守るためとはいえ、死に際した彼らの思いが、そのような英雄譚(たん)だけで語り尽くせるほど単純なものでなかったことだけは想像に難くありません。
家族に向けた哀切の情、生への執着、使命感と共に内在する自分が犠牲になることへの理不尽な思い、そうした諸々の思いが交錯するなか、それでも操縦桿を一気に押し倒し、彼らは自らの一命をかけて敵艦を屠(ほふ)ることに身を捧げました。
自己の命を犠牲にしてまでも他を生かすという発想は、日本の古(いにしえ)の時代より培(つちか)われてきた崇高な理念です。しかし、彼らをそうせざるを得ないほどに追い詰めたものは明治以降、無理に無理を重ねて富国強兵につとめた日本の歴史そのものであったともいえるでしょう。
後生に生きる私たちにできることは、彼らを顕彰し、感謝の思いを捧げながら慰霊することです。そして、神風特攻隊の物語を語り継ぎながら、二度と同じ過ちを繰り返さないように平和への誓いを新たにすることです。
セブ観音は今も、神風特攻隊が舞い上がった空を、じっと見つめています。神風特攻隊の悲劇を風化させてはならない、語り継がねばならないと、セブ日本人会は切に願っています。
レイテの戦いとセブ観音
セブ観音はセブ島に位置しますが、セブ島だけの慰霊にこだわることなく、ビサヤ諸島全体の慰霊を兼ねています。フィリピンの戦いにおいて最も死闘が繰り広げられたレイテ島も、ビサヤ諸島のひとつです。
今から75年前、レイテ島はまさに地獄でした。日本兵にとっても米兵にとっても、そしてレイテに暮らすフィリピン人にとっても、当時のレイテは地獄の島以外のなにものでもありませんでした。
レイテの戦いに投入された日本兵は、およそ8万4000人です。そのうち生きて日本に戻れた将兵は、わずか2400人ほどに過ぎません。実に8万人以上、率にすれば97%の日本兵が、レイテ島にて土に還ったのです。
特攻が行われたのは、なにも空だけではありません。海では人間が魚雷に乗り込んで敵艦に体当たりする回天特別攻撃隊が組まれ、陸では弾薬が尽きた日本兵が銃剣を手に米軍の陣地に突撃するという斬り込み隊による特攻が繰り返されました。レイテにおいても、あまたの日本兵が斬り込み隊として戦死を遂げています。
1944年後半以降、日本軍の作戦のことごとくは陸海空からの特攻がなければ成り立たない惨憺(さんたん)たる状況を呈していました。そこには数え切れないほどの悲劇の物語が織り込まれています。
世界の軍事史にも例をみない特攻が繰り返されたのは、刀折れ矢尽きた挙げ句に「最後に残された頼みの綱が精神力よりない」、といった刹那的な状況に追い込まれたからこそです。
平和な現在から振り返り、そのような状況を揶揄(やゆ)することは、正しいこととは思えません。たしかに当時と今では、価値観が大いに異なります。
しかし、レイテで死んでいった日本兵たちと今の私たちといったい何が違うのかと思いを馳せるならば、決定的な違いは「時代」以外に求めることはできないように思えます。
もし、あの時代に私たちが生まれていたならば、日本兵の一人として南方の島のどこかに送られたはずです。たとえ私たちがどれだけ平和を求めたところで、兵士一人ひとりの思惑などなんの力もなく、国家の意思のままに時代に翻弄されるよりなかったことでしょう。
その先に待っていたのは、突撃による死であったのか、あるいは密林の中をさまよった果ての餓死であったのか、病死であったのか、それとも自決であったのか……。
もう少し生まれる時代が早ければ、レイテ島で死んでいったのは私たち自身であったのかもしれません。
そのとき、私たちは何を思って息絶えたのでしょうか。
おそらくは死ぬために戦う兵士など、一人もいなかったことでしょう。誰もが家族のもとへ帰還することを願い、生きるために必死に戦ったに違いありません。
しかし、戦死・餓死・病死・自決など死に様はさまざまであったとしても、結果的に日本軍の多くは全滅して果てたのです。
地獄のレイテから奇跡的に生還した日本兵の多くはセブ島に転進するも、上陸した米軍とフィリピン人ゲリラ部隊に追われ、密林のなかに多くの屍をさらしました。
レイテにおいてもセブにおいても、未だに数多くの遺骨が収容されないまま、密林に眠っています。
毎年、8月15日にセブ観音を前に響く読経の声が、彼らの魂を少しでも慰めてくれることを願うばかりです。
フィリピン人はなぜ日本人を憎悪したのか?
当時、日本にとってフィリピンは防衛上の要でした。戦局は振るわず、マリアナ沖海戦の惨敗とサイパンの失陥後は、米軍の日本本土への攻撃をなんとしても止めることが、日本軍に課された使命でした。
サイパンが落ちたからには、その飛行場から飛び立つ米軍機による本土空襲を防ぐ手立てが、もはやありません。米軍による本土空襲は次第に激しさを増しました。学童疎開が始まったのも、この頃です。
やむなく日本軍は、フィリピン・台湾・南西諸島から日本本土を連ねる戦に沿った地域を「絶対国防圏」と定め、ここでなんとか米軍の動きを止めようと必死に抗いました。
なかでもとりわけ重要な拠点とされたのが、フィリピンです。フィリピンが米軍の手に落ちるということは、石油などの南方資源ルートが完全に断たれることを意味していました。そうなればもはや日本の敗戦は、避けようがありません。
残り少ない航空機にしても艦艇にしても、石油がなければ動かすことさえできません。南方資源を確保するために、フィリピンは防衛上の最重要拠点だったのです。
そもそも日本が太平洋戦争に踏み切ったのは、南方の石油資源を確保するためでした。どれだけ大きな犠牲を払ってでもフィリピンを死守しようと、大本営は残り少ない戦力を集め、フィリピン戦線に投入しました。
日本軍はフィリピンを守るための戦いに、まさに国運を賭けたのです。
しかし、このことは日本側の都合に過ぎません。フィリピンの人々からすれば、フィリピン人とはなんの関係もないにもかかわらず、自分たちの暮らす地を一方的に戦場とされたわけですから、理不尽以外のなにものでもありません。
過去にアメリカの侵略を受けた際、フィリピンは独立をかけて米軍に抗い、米比戦争を戦い抜きました。米比戦争におけるフィリピン人民間人の犠牲者数は、20万人から150万人といわれています。
米比戦争に敗れ、一方的に植民地とされたことで米軍基地を抱えていたとはいえ、そのことがフィリピンにとっての罪であるはずもありません。
ただ家族と平和に暮らしていただけなのに、突如日本軍が攻めてきてはアメリカに代わって彼らを支配し、その後、米軍の上陸によって再び戦火に包まれ、フィリピン人の多くが巻き添えとなって命を落としました。
多くの犠牲者を生んだことは、フィリピン人の心に日本という国家、および日本人に対する激しい憎悪を残す結果となりました。
戦時中の日本軍によるフィリピン支配が残酷なものであったことは、多くの資料が物語っています。
日本軍が太平洋戦争を戦い抜くためのスローガンとなった「アジアの解放」は、フィリピンでは当てはまりませんでした。
なぜなら当時、米議会の承認によってフィリピンは1946(昭和21)年の7月に独立する予定になっていたためです。
苦労してようやく独立までのカウントダウンが始まっていたにもかかわらず、頼んでもいないのに日本軍がやって来てフィリピンから米軍を追い出すと、アメリカに代わって統治を始めたのです。フィリピンにとって日本軍は招かざる客であり、まさに侵略者として受け止められました。
後年、日本はフィリピンの独立を認める戦略に切り換えましたが、日本軍政下のもとでは傀儡政権に過ぎないことは明白であり、フィリピン人の広い支持を受けることは適いませんでした。
さらに、輪をかけて事態を悪化させたのは、軍政下のフィリピン占領政策が完全に失敗に終わったことです。
日本軍によるフィリピン支配は、アメリカに深く依存していたフィリピン経済に壊滅的なダメージを与えることになります。
突然、アメリカから物資が一切入ってこなくなったことにより、フィリピン人の生活は大混乱に陥りました。だからといって日本には、フィリピンに物資を供給する国力などありません。
物資の不足は激しいインフレを呼び込み、フィリピン人の暮らしぶりを圧迫しました。
日々の暮らしにも困り果てたセブ住民を、さらなる苦難が襲いました。日本軍による「徴発」(強制的に物を取り立てること)です。
アジアの各地に進出した日本軍の補給は、現地調達を旨としていました。セブに配置された数万の日本兵の食糧は、セブ住民からの徴発によってまかなわれていたのです。米軍とは異なり、日本内地から米などの食糧を送る余裕など、日本軍にはありませんでした。
「徴発」という言葉からは、それほど過酷な印象を受けません。されど実際は日本軍の敗色が濃くなるにつれて、その実態は略奪へと変わっていきました。徴発を任された日本兵は食糧の提供を拒む農民をときに脅し、ときに暴力をふるい、無理やり食糧を奪っていったのです。
日本軍政下にあってセブ住民の暮らしぶりは貧窮を極め、家族が食いつなげるだけの食糧を確保するだけでも精一杯でした。家族が生きる糧となる、その貴重な食糧を日本兵に傍若無人に奪っていかれては、たまったものではありません。
徴発されるのは食糧ばかりではありません。民家に押し入った日本兵が衣服や金目のものを奪い取ることも、珍しくありませんでした。
なんらかの労役に駆り出される徴用も、セブ住民にとっては大きな苦痛でした。徴用を拒否して殴打されることもあれば、反日思想者として憲兵に逮捕されることもありました。
「憲兵隊の門を一度くぐった者は出て来られない」という言葉は、セブの各所でささやかれました。
こうしてセブ住民の憎悪の眼差しは、日本兵に集中したのです。
日本兵に対する失望と怨嗟(えんさ)は、セブの若者たちにゲリラの戦士となる決意をさせるに十分でした。
フィリピン人の大半はアメリカの統治下だった頃を懐かしみ、暴虐な日本軍を忌み嫌いました。
“I shall return.” の台詞を残してフィリピンを去ったマッカーサーが再び舞い戻り、米軍が日本軍を追いだしてくれることを、ひたすら願ったのです。フィリピン人にとっては、米軍こそが圧政を敷く日本からフィリピンを解き放ってくれる「解放軍」でした。
解放軍である米軍の援助のもと、日本軍への抵抗を続けるゲリラ部隊に身を投じることは、フィリピン人にとっての正義でした。
日本軍の圧政が強くなるほど、ゲリラ部隊に加入する若者は増え、日本軍を苦しめました。ゲリラは日本の占領政策を妨害するために、日本軍の徴発や徴用に応じた同胞を、対日協力者と見なして射殺しました。
セブの住民はゲリラの報復を恐れ、日本兵による徴発や徴用を避けるために、日本兵が近づくだけで逃げるようになりました。すると日本兵は、自分たちの姿を見て逃げ出すフィリピン人をゲリラの一味と見なし、容赦なく射殺しました。
ゲリラ兵と日本兵の双方から射殺される恐怖に、セブの住民は脅えました。
日本軍政下の過酷な圧政と日本軍によって甚大な犠牲(実際には米軍の空爆などによる犠牲者も多くいた)が生じたことは、戦後まもなくの頃におけるフィリピン人の対日感情を、憎悪で満たしたのです。
憎悪から友愛へ
戦後にフィリピンで行われたBC級戦犯裁判の結果を見ても、フィリピン人の怒りがどれほど深かったのかを感じ取れます。訴追された151人のうち、実に9割以上に当たる137人が有罪となり、そのうちの6割に当たる79人に死刑が宣告されました。
戦後、日本の植民地から独立した国で対日戦犯裁判を行ったのは、フィリピンだけです。その事実だけを見ても、他の東南アジア諸国とは異なり、フィリピン人の対日憎悪には相当根深いものがあったことがわかります。
しかし、戦後の日本とフィリピンの関係を追いかけてみると、フィリピン人の対日感情が憎しみから赦しへと次第に転換していったことが見てとれます。
その契機となったのは、1953(昭和28)年7月にフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領が、死刑囚56名を含む日本人戦犯105名全員の恩赦を行ったことです。モンテンルパ刑務所に服役していた105名は全員、日本への帰還を果たしました。
ちなみに、戦後の混乱期に行われた戦犯裁判には問題も多く、冤罪で死刑判決を受けた日本兵も多く含まれていました。無実の死刑囚を救おうとする運動が日本本土で起き、戦犯の悲哀を歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』がヒットしています。
キリノ大統領がフィリピン国内から寄せられる猛烈な批判を覚悟してまでも、「赦し」を与える決断をするきっかけとなったのは、この哀切を帯びた『あゝモンテンルパの夜は更けて』を聴いたからと伝えられています。
実はキリノ大統領自身、まだ幼かった子供3人と妻をマニラ市街戦の折に日本軍に殺害された過去を背負っていました。個人的な憎悪を乗り越え、恩赦によって戦犯全員を日本に帰したことは、日本国民に大きな感動を与えました。
キリノ大統領の英断は、憎悪一辺倒だったフィリピン人の対日感情を「赦し」という大河へ導く初めの一滴となったのです。
今日のフィリピンは間違いなく親日国家です。セブにおいて日本人とわかるだけで、多くのフィリピン人の歓待を受けることも珍しくありません。このような状況を、戦後まもなくの反日感情にあふれたフィリピンから想像することは、とてもできません。
戦時中に日比両国の間に横たわっていた憎悪は、およそ70年余の時を経て友愛へと切り替わりました。
戦時の怒りを現在の友愛へと変えたのは、キリノ大統領に端を発する「許し」の精神であったことを、私たちは忘れるべきではないでしょう。
「許し難きを許す」という英断こそが、戦時と今を結ぶ架け橋となったのです。
日本とフィリピンの関係が、憎悪から友愛へと切り替わったシンボルとして建立されたのが「セブ観音」です。
セブ観音の修復費用支援のお願い
セブ観音は、レイテを含むセブ周辺の戦いで散華した日本兵と、軍とは関係なく戦禍の巻き添えとなって命を落とした日本の民間人の慰霊とともに、日本兵と戦って死んでいったフィリピン人兵士、そして犠牲となった多くのフィリピン人居住者の御魂を慰めるために建立されました。
そのため、毎年8月15日にセブ日本人会が主催して開かれる慰霊祭には、日本とフィリピン両国の戦没者の遺族が多数、集います。
また最近では、アメリカ人の参加も目立つようになりました。各種ボランティア団体の協力も受け、当時の記憶を風化させないための取り組みが行われています。
セブ観音像こそが「平和のシンボル」であると、セブ日本人会では捉えています。
現在も運営を続けているホテルの一角に、セブ観音の建立を許していただけたマルコポーロホテルのオーナー夫妻に対しては、深く感謝しております。当時は日本兵の慰霊などとんでもないとする空気が強く、設置場所を探すだけでも大変でした。
そんななか、助け船をだしていただけたマルコポーロホテルについては、感謝の意に堪えません。
しかも、いつ訪れてもよいように銅像や敷地の手入れまで行っていただき、その厚情に関しても深く感謝致します。
多くの方々の支援を受けながらセブ観音像が建立され、今日まで維持されていることは間違いありません。
だからこそ、観音像の一部がもぎ取られ、盗まれたことは、多くの関係者に計り知れないショックを与えました。
この盗難事件を受け、マルコポーロホテルでは警備員による見回りを強化するなど、さらに手厚い支援を施してくれました。
しかしながら、いつまでもホテル側の厚意に甘えるわけにもいきません。そこで、観音像の修復を行うとともに、セキュリティを強化するために監視カメラ等を設置したいと考えております。
現時点で金額は確定出来ておりませんが、今回は盗まれた光背と蓮の花の制作代金は新型コロナの影響で日本から運ぶことが難しくなったため一旦保留するとして、これ以上被害を出さないための防犯監視カメラの購入と設備で約37万円と見積もっています。
セブ日本人会で予算を捻出できればよいのですが、会員数が100名前後と少ないため、非常に厳しい状況です。
セブ日本人会の会費は、日本人補習校の費用、家賃などに当てなければならず、残念ながら観音像の修復に回す余裕がありません。
そこで今回、皆様に、セブ観音像修復のための支援をお願いする運びとなりました。
ここまで紹介してきたセブ観音像の趣旨について理解していただける方がおられましたら、少額でも構いませんので、ご支援をお願い致します。
もちろんセブ日本人会では、今回で集まった金額の多寡にかかわらず、観音像の修復をなんとしてもやり遂げる覚悟でいます。
セブ日本人会の会員の多くは、現地にて何らかのビジネスを展開しています。新型コロナによってもたらされた経済苦により、今は誰もが深刻なダメージを受けています。このままコロナ禍が続けばビジネスが立ちゆかなくなるため、セブ日本人会がなくなる可能性も否定できません。
それでも、これ以上被害を出さないための設備だけは2021年8月15日の慰霊祭までに、必ず成し遂げる所存です。どうぞ、ご支援をよろしくお願いします。
セブ観音は日本とフィリピンを友愛の輪で結びつけるシンボルです。日本人もフィリピン人も、多くの遺族や関係者の方々がセブ観音を訪れては往時を偲び、慰霊の時を過ごします。
その際、背後にあった光背がむしり取られ、手にしていた蓮の花が折られてなくなっている無残な姿のセブ観音像をさらすのでは、あまりの申し訳なさに胸が痛みますが、まずはこれ以上の被害だけは避けたいと願っております。
遺族の方々に悲しい思いをさせたくはありません。修復することが最善ではありますが、それが難しい今、せめて現状のままの観音像を前に、慰霊していただきたいと切に願います。
そして、慰霊だけではなく、戦時に何があったのかを語り継ぐために、何を守るために若者たちが特攻で死んでいったのかを語り継ぐために、平和への誓いを新たにするために、セブ観音像の防犯カメラの設置にご協力いただければ幸いです。
最後になりましたが、セブを訪れた際には、ぜひセブ観音まで足を運んでみてください。死を覚悟してレイテ沖に飛び立った特攻隊員たちの思いを、戦禍に倒れた日比両国の民間人の無念さを、きっと感じ取れることでしょう。
そのような悲惨な過去を経て、現在の私たちへと命は繋がっています。
戦火に包まれたあの日のセブと、平和に満ちた今のセブを、セブ観音がつないでいます。ご支援の程、どうぞよろしくお願い致します。
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