セブ島通信 Vol.155 2016年11月号へ戻る

レイテ島慰霊(2016年10月19日〜21日)

日本人会シニアクラブ/ID担当 安藤 尚子

今年も石田元日本人会会長のお声をかけで、およそ400Kmの距離を移動し、レイテ島各所に現存する日本人戦没者慰霊碑を慰霊してきました。 今年はレイテ沖海戦勃発から72年に当たります。大東亜戦争においてフィリピンは大激戦地であり、多くの将兵が眠るレイテ島へ慰霊の旅に出掛けることを今年も切望し参加しました。 今年の参加者は日本人会会員の方々に加え、お父様がレイテで戦死されたご遺族、そして僧侶の方が同行され、英霊の魂を癒す事が出来たと思います。 今回は、中でも3日目に慰霊した山添勇夫大尉(陸軍)のエピソードをご紹介します。 こちらの慰霊碑は他の慰霊碑と違い、戦後フィリピンの地元住民の手によって建立されました。 戦時中、山添大尉はレイテ島ドラグ市の守備隊長を務めていました。 地元住民たちに対して常に公平で親切であり、また住民らと親睦を深めるため、スポーツや文化ショー、映画上映などの機会を掲げ、食糧不足で困らぬようにと野菜作りを教えました。そして子供達には日本軍が作った学校で学ぶ機会を与えました。 住民らに信頼され、尊敬されていた山添大尉は、昭和18年にゲリラとの戦闘で命を落としてしまいました。 ゲリラとの戦闘の際には、住民が巻添えにならぬよう、生活圏での戦闘は避けるようゲリラ側と交渉し、おかげで多くの住民の命が救われました。 そんな山添大尉の死を悼む住民たちは、日夜を問わず教会の鐘を鳴らし追悼しました。さらには大尉の功績を讃えるために小さな慰霊碑を建立しました。 現在の慰霊碑は、ドラグ市により大きな物にて替えられていますが、レイテ島を襲った巨大台風により一部破損はしていますが、 「CAPT. ISAO YAMAZOE SHRINE」 として祀られています。 この立派な慰霊碑は山添大尉の死後73年経た今でも、地元住民の手で管理されています。 ーレイテ島の戦いー 1941年12月8日の開戦以来、欧米の植民地であったアジアに破竹の進撃を続けていた日本軍ですが、ミッドウェイ海戦の敗退以降は攻勢に転じた米軍の太平洋における包囲網が強まる中、太平洋を北上する米軍はついにフィリピンに到達しました。 1944年10月20日、米軍はレイテ島に向け上陸作戦を開始しました。 およそ700隻の米軍艦船が、レイテ島の東海岸に向けて一斉に艦砲射撃を行いました。4時間に及ぶ攻撃は、海岸線の地形は大きく変貌するほどでした。 この時、フィリピン防衛にあたったのが南方第14方面軍(陸軍)山下奉文大将でした。 そして、レイテ島を守備していたのは、陸軍第16師団16,000人の将兵でした。 大東亜戦争におけるこのレイテ島の戦いは日本軍にとって「天王山」と言われ勝敗を決める大事な局面でした。 米軍のレイテ上陸作戦を阻止するべく、レイテ沖では日本海軍連合艦隊が総力を結集し、連合軍の艦隊との間で大海戦が繰り広げられました。これがレイテ沖海戦です。 しかし、日本海軍連合艦隊は事実上壊滅してしまいます。 艦砲射撃が終わると、米軍は一斉に上陸を開始。その数はレイテ島の日本軍のおよそ3.7倍の60,000人と10万トンの車両、物資を揚陸しました。日本軍は兵力の8割を失って壊滅状態となります。 米軍上陸から10日経った11月1日、日本軍は大規模な増強部隊が送り込みました。陸軍第1師団です。レイテに上陸した第1師団が向かったのはリモン峠でした。リモン峠はレイテ島の中央に走る山脈にあり、当時は東西の平野をつなぐ唯一の場所でした。第1師団は米軍とこの峠で激突し、米軍の強大な物量の違いを目の当たりにしました。制海権・制空権を失った日本軍は物資補給もままならず、兵力、物資、食糧不足でさらに戦況は悲惨な状況となりました。リオン峠では激しい飢えや病で、兵士たちは次々と倒れていきました。 やがて米軍はリモン峠を制圧、犠牲になった日本兵はこの戦いだけで6,000人を超えました。 2ヶ月後の12月10日、レイテ島西岸の町オルモックは米軍の手に落ちました。 ついに大本営はレイテ島の放棄を決定し、兵士たちに転進を命じました。向かう先は米軍がまだ上陸していないセブ島。輸送船が待機する海岸までの道のりを衰弱しきった兵士たちは次々と脱落、過酷そのものでした。 しかし、やっとたどり着いた海岸に用意されていたのは小型舟艇4隻だけでした。優先的に乗ることを許されたのは、戦力になるとみなされた将兵で、セブに渡ることができたのは900人。およそ15,000人がレイテ島に取り残されました。米軍はゲリラ部隊に、敗残日本兵の掃討命令を下します。 そんな将兵たちは、密林の中で次々に息絶えていきました。そのほとんどが、ここでどのような最期を遂げたのかすら分かっていません。 12月15日、米軍のレイテ島パロンポン占領で連合軍はレイテ沖海戦の終了宣言をしました。 米軍戦死者約3,500名、日本軍戦死者は約79,000人にのぼりました。

Thumb        2

セブ島通信 Vol.155 2016年11月号へ戻る